敬意は重要ではない

真性引き篭もり「人間力のあるエントリー」

 以前、何かのはずみで、「失楽園」の作者の渡辺淳一の講演会に行ったことがある。

 曰く、イギリスの小娘に言われたこと。

「レディーファーストは相手を見てやるんじゃないの。女性と見たらやるのよ」

 敬語も同じ。相手に敬意を示すかどうかは重要ではなくて、人と見たら使うべきもの。伝統から、日本ではそれが礼儀作法として、円滑なコミュニケーションに必要なものになっている。

 例えばレストランの店員。または宿の女中。多く、彼らは笑顔で、敬語で話す。店によっては、「はい、喜んで」とか「おかえりなさい」とかも使う。京都に至っては、「田舎から遥々、ようおこしやす」なんて言う宿もある。それぞれ、客に応対するときの礼儀作法としてあって、相手を選ばず、たとえ無遠慮な相手でも客と見たら使う。こういった分け隔てや差別の無い応対が接客においては重要で、そこに敬意はない。ないが、客は気持ちよく店を後にできる。

 つい最近までは、老若男女、親戚友人兄弟同士ですら敬語を使うのが一般的だった。そう生きてきた人たちが、「今の敬語は間違っている」と言い出すのは仕方の無いことだ。「正しい敬語」というのは、その時その場の礼儀作法に適っている話し方ということ。そしてこれらは普段の生活で培われてきたものだった。核家族化が進み、親戚付き合いが疎遠になるにつれて、日常使われてきた礼儀作法に触れる機会が少なくなった。現代の子供たちは、親や学校の先生が敬語を、礼儀作法を尽くす姿を見ないで育つ。「正しい敬語」を使えるわけがない。

 マスメディアでも盛んに言われている、敬語の誤用。敬語で育った世代と、敬語の無い中で育った世代の対立の構造になりつつある。この深い溝を埋めるのは難しい。