オレは「モヒカン族」か
色んな人のブログを読むようになってから、自分の人となりをしばしば観察するようになった。
オレは「モヒカン宣言」を尊敬している。故に自分が「モヒカン族」だと思っている。『仮に仲間であっても間違っている場合は他意なくミスを指摘する』とか『論理的に正しければ、たとえ人柄が好ましくない人でも、その論理を評価する』(「ムラ社会 - モヒカン族」より)といった姿勢を是とし、常に心がけている。しかし「常に心がけている」ことが、これが自分の本質でないと示唆しているのではないか。事実、『手作業と苦労が感じられるほど評価する』や『自分の趣味の対象に否定的な言葉をかけられると、(中略)「そんな趣味を持っている人はダメだ」という風にバッシングされたと曲解して怒る』ということは往々にしてあって、しかも今はそれを修正しようとしている段階にある。
神社・仏教の家系のため、生まれたときからの環境は筋金入りのムラ社会だ。古風なしきたりから血縁でない人が苦しめられた、という話も聞く。父母はその世界から一歩引いた位置にいたかったようだが、しかし子である以上、完全に縁を切るわけにもいかない。当然のごとく、オレも無関係ではいられなかった。
高校時代まで、自分にとってそういった世界は当たり前だった。慣習やしきたり、礼節などは守ってしかるべきものであって、それが原因で友人との間で衝突したりもした。それが高校の三年間、ムラ社会と対立する側に立ち続けたことで、大きく考え方を変え、「ムラ社会は悪」という思想にまで発展した。
大学時代は、高校時代とは打って変わって、慣習やしきたり、果ては礼節までも無視する言動や行動が対立を生んだ。実際、当時のオレと出会い、オレを敵とみなすようになった人は少なくない。あるいは、「仕方のない奴だ」と見られるようになった。当時はそれを苦に思うどころか、それこそ善だと思っていた。加えて友人は減ったが親友と呼べる相手が増えたことが、またそれに拍車をかけた。
当時の考えを否定するわけではない。今も「ムラ社会」の悪習は是認できない。ただ大学時代と比べると、「郷に入れば郷に従う」意味を理解するようになった。ビジネスを始めたことと、祖父との対話が影響している。
祖父の仕事である神主は「ムラ社会」の権化だ。しかし祖父は、伝統やしきたりを重んじながら、筋金入りの勉強家である。70を過ぎてエクセルやワードを自ら使いこなそうとするほどの。そして祖父は否定や肯定といったことをしない。人の話は黙して聞き、淡々と自分の考えを主張する。間違いは正しく指摘し、人を軽蔑したり差別したりはしない。「ムラ社会」に生きながら同時に「モヒカン族」であるのだ。対話を通じて、その姿勢を美徳として感じるようになったことから、今度は「モヒカン族」と「ムラ社会」との両立を考えるようになった。
「ムラ社会」を否定して生きるのは簡単だ。孤独になればいい。または「モヒカン族」だけが集まる世界にだけ生きるか。しかし「モヒカン族」だけが集まる世界も一種の「ムラ社会」だ。そこにはそこのルールがあり、そこに生きる人々はそのルールに従う。では「モヒカン族」とはそもそも何なのか。
「モヒカン宣言」に啓蒙されて、自分が「モヒカン族」だと主張する人々が集まれば、そこにできあがるのは他を寄せ付けない「ムラ社会」に他ならない。ならば「モヒカン族」とは何か。それは思想の一つであってそれ以上でもそれ以下でもない。そしてそれは「ムラ社会」と相反するものではない。「ムラ社会」を否定する考えそのものが、既に「モヒカン族」のものではないからだ。
「モヒカン族」を一口に言えば、「否定しない」文化だ。それは議論や思想におけるものであって、「ムラ社会」とは別次元のもの。しかし「ムラ社会宣言」は、「モヒカン族」を「ムラ社会」との「文化衝突」にまで矮小化してしまっている。「ムラ社会」も、「モヒカン宣言」からすれば認められてしかるべきものなのに。
確かに「モヒカン族」が「モヒカン族」として対話している以上、「ムラ社会宣言」のような考えは忌むべきものだろう。しかし、そもそもこういった対立が生まれたのも、「ムラ社会」の人が「モヒカン族」の対話に介入して「痛い目を見た」と思ったことから始まっている。しかしそれは「ムラ社会」が一方的に悪いのか。「モヒカン族」が「モヒカン族」として対話しているということを、正しく「ムラ社会」に伝えられなかったのが原因の一つにあるのではないか。『やっぱりモヒカンで手斧を持った連中がウロウロしているってのはちゃんと啓蒙したほうがいいような気がする。』(「モヒカン族 - モヒカン族」より)というのには諸手を挙げて賛成する。「モヒカン族」になりたくない人に「モヒカン族」になれというのは傲慢だ。
ここまで考えて、はたと思う。オレは「モヒカン族」か。「モヒカン宣言」を是とする人は「モヒカン族」か。ただ一つ、はっきり思えることは、「ムラ社会」とわざわざ対立するような「モヒカン族」にはなりたくないということだ。
文脈が支離滅裂だ
言い訳です。勉強不足。