「モヒカン族」に関する言及

「何で知らないんだ」って顔されたら、大抵の人はムカッとするさ。
(「TransFreeBSDの日記 - ケータイ族はなかった事にされている? - inspfightmanの日記」より)

 多数派に支配的なムラ社会文化では「知らないこと」は「劣っている・下である」と同一で、それを淡々と指摘することは言外に貶していることと受け取るのが当然である。という話ですね。
(「「モヒカン族」に関する言及」より)

 というより、言いたかったのは指摘する側の言い方に問題があったんじゃないかってこと。

 問題なのは、指摘する側は何十回も何百回も言っているのに対して、指摘される側は初めてのケースが多いってことだろう。丁寧に皮肉なく説明されればいさかいも起きないだろうが、指摘する側、つまりモヒカン族が「マタカヨ!」って調子で言うようになっちゃったんじゃないかな。
(「TransFreeBSDの日記 - ケータイ族はなかった事にされている? - inspfightmanの日記」より)

 先生って職業やってる人が良くするミスの一つ。相手を十把一絡げにして「またか」とか「だからお前らは」って感情を表に出すことで発生する反感。先人として指摘する場合にも起こり得る。

 もちろん、皆が皆、そうだったとは言わない。ただ残念ながら日本において、「単なる事実の指摘と悪意は別である」は共通認識ではない。「学校」でも教えてないし。だから「モヒカン族」は気を使って話さなきゃいけなかった。

 オレも当時を知ってるわけじゃないから推測でしかないんだが、元々、インターネットってもの自体、「学徒」たる「モヒカン族」たちによる閉じたコミュニティだった。それがケータイやメールの爆発的な普及によって、「学徒」では無い人たちが傾れを打つように参加してきた。彼らは啓蒙を目的としてなかったが、「学徒」たちがそれに気付かずに「学徒」に接するように接してしまったのが問題なんだろう。「学徒」たちは相手もおんなじ「学徒」だと思ってるから、「何で知らないんだ」って感情が出てくる。しかもその相手が一人二人どころじゃない。

 こういった問題はインターネットの世界だけじゃない。巨大化するあらゆるコミュニティやグループが抱えてる問題で、大きくなるにつれ、初めの思想や考え方と違う人たちが大勢を占めるようになってくる。それほど大きくないグループや会社ならなんとか軌道修正も利くだろうが、インターネットみたいな巨大なものになると圧倒的多数が優勢を得てしまう。

 啓蒙がいけないわけじゃない。ただ「モヒカン族」は先人として気を使わなけりゃいけなかった。ネットが一般普及し始めた頃、「正しい使い方を」とか「下らない使い方が」とか、少々傲慢とも取れる文書が良く目に付いた。言ってることは間違ってないんだが、上からモノを言うような姿勢が鼻に付いたのを覚えてる。暴力的な少数派は排他されるのが社会。

 「モヒカン族」から見れば、自分たちの思想や考え方と違う使われ方をしてることに憤りがあるだろう。ただ、そのままぶつけては反って弾圧されるほどにコミュニティが膨れ上がった。「モヒカン宣言」を是とすることに問題があるのではなく、「モヒカン宣言」を是とすべきだとする感情に問題がある。怒り混じりに思想や考え方を押し付けるのではなく、万人に理解し易く、受け入れ易く広めていくのが、巨大化した社会における「啓蒙」なんだと、オレは思う。