ODA は無駄遣いか

 寄付行為の是非については、あえて「是」としておく。

 高価な医療危機を送っても使われない、または壊れても修理できない。橋を掛けても車が普及していないから役に立たない。せっかく多額の税金をかけても、この体たらくでは無駄だと言いたくなるのは分かる。それよりも風邪や怪我などで苦しむ人々のために安価な薬を大量に送ろう。子供たちのために文房具を送ろう。その方が大いに役に立つのではないか。そう言いたくなる気持ちも分かる。

 だが本当に無駄だったのか。確かにCTスキャナ一台で、数百人の怪我を治療できる。橋を掛ける費用一つでいくつかの学校を立てられる。しかし、人を救うのに「数」がそれほど重要なのだろうか。数百の子供を救うためならば、CTスキャンを求める数人程度の病人は犠牲になったも良いのか。大災害などそう起こることもないから、それよりも今日明日を生きるための日用品を揃えることが重要か。多くの場合、これは正論であって、文句のつけようはない。しかし、重要な政治家が高度な治療を要する病に倒れて、内乱が起こるとも限らない。災害や疫病の蔓延に苦しんでも、孤立して救援が行き届かないかもしれない。

 いい悪いの問題ではない。ただ、こちらをたてればあちらがたたずでは、不透明さも相まって、数や即物的な問題が目立ってしまう。ODAの問題は、それ一つの成果ばかりが目立ってしまうことだろう。

 日本には資本と技術がある。高度な医療危機機器*1や橋梁技術を提供できる国はそう多くはない。だから日本が、その中でも多くの資本や人材を投入できる機関が行わなければならない。それが日本政府なのだ。

 ODA政策は無駄ではない。ただ、それだけでは駄目だということだ。

 そこで一つ、立案がある。ODAは、多少の改善はあるにしろ、そのままにして、別に国民参加型の政策を行ってはどうか。

 以前、ドラえもんを利用した広告で、「百円玉一つで数人の子供を救う治療薬を買えます」というのがあった。寄付金の使い方が明瞭で、かつ一人辺りの負担も少ない。こういった募金行為を、国もやってみてはどうか。

 ユニセフなどの慈善団体もあるが、いくら払えばいいのか、どういう使い方をされるのかが、一般人には分かりにくい。しかも非営利団体だから広告もままならない。だから政府が、「この国に対して、こういう病気を救うために薬を買いたいので、一人百円ずつ寄付してください」と国民全てに呼び掛けたらどうか。寄付行為の成果も実感しやすく、負担も少ない。百円なら子供でも出せる。それが1億5千万人分集まれば、150億円。薬を買ってあまりある金額が集まる。手軽にできるし、寄付金の運用結果を発表すれば、国民に参加意識も芽生える。これを年に一度ずつでも行えば、その効果は大きなものになるだろう。

 国による支援の問題点は、国民に「税金を使って勝手にやったくせに」という意識があること。正直、150億程度では広告と募金にかかる人件費で多くが消えてしまうが、国民に「自分の意思で寄付した」という意識を持たせるのは大切だと思う。成果が分かればなおのこと。

*1:医療危機を提供って、まるで皮肉だ