いじめについて考えてみた
勘違いを防ぐためにあらかじめ言っておくが、「いじめ」を容認しようという話ではない。
以下はチャットのログを「ほぼ」そのまま転載しています。
友人:『んじゃ、こりゃ』
自分:『「群れ」の概念から「いじめ」についてアプローチしてみる
「群れ」を考えれば、「いじめ」って本能だよねって話』友人:『これは、君とはどんな関係だ?』
自分:『(都合により削除)
このえんとりーにしてもコメントにしても
群れとしての人の本質には触れてないなと
感情論だけで話をしてるから一石投じようかと』友人:『してみてもよいのではないかな。
ただ、感情論で走っているひとを立ち止まらせるのは、結構しんどいというか、不毛になりがちではあるが。』自分:『うむ
んで「群れ」の本質として
一つの対象をもったときの強みと
それを抑える勢力について
うんうんと悩んでいる』友人:『「群れ」ってのは、特殊な概念だよね』
自分:『思うに
いじめって群れの特質だと思うのよ
キツネはいじめをしないでしょ
でもヤギはいじめをするのよね』友人:『いじめって、力関係の結果でないの?』
(突如電源断)
自分:『gome
電源ボタンけっ散った
蹴った』友人:『w
いじめね。
いじめって、結局、何を指すんだろうね
力があるものが、ないものに対して何かを強いる行為をさすならば
いじめるためには力が必要
群れはその力を拠出するから、いじめを成り立たせるといえる』友人:『力があれば、何かを強いるよ
ただ、その強いるという行為に対して、正当性を認めるかいなかだけれど、
結局は強いるという行為の本質には変わりはないんじゃないのかな?
僕にとって、アメリカがイラクに対して何かを強要していること自体はかわりないかな』自分:『群れとしてさ
いじめってなくせないと思うんだよねぇ
敵がいるから群れが成り立つわけで』友人:『力関係だからさ
羊が群れても狼をいじめられないことがあるわけじゃない
むしろ、出来るならば群れた羊は狼をいじめたい
群れというものの性質が、そもそも攻撃的な性質を含むのかもよ』自分:『なるほどね
群れても羊は狼をいじめない、か』友人:『スイミーだって、結局は群れていじめられないはなしだし
群れるという行為自体が、いじめる?力を欲しているのかな』自分:『そもそも
「いじめ」っていう概念が
人間の社会団体特有なんだよね』友人:『動物的には、もう少しシンプルなんだろうね
動物社会におけるいじめ?って、力関係そのものなんじゃないの?
ただ、少し良く分からないいじめっていうものは、
いじめに参加しなければ、群れから排除されるという感覚かな
喜びのないいじめね』自分:『群れそのものが力を内包するってことかな
思うのは
いじめにいやいや参加するにしても
喜び半分、悲しみ半分だと思うのね
哀100%だったら対抗するでしょ』友人:『群れというもののが、実体のない総体を形成して、
それから外れるものを排除(いじめよう)しようとする傾向があるのかな?』自分:『んだね』
友人:『群れというものの力の創出のロジックが、それを排除するのかな
群れ=弱い力のベクトルがあっている総体
だから、
そのロジックを乱すものは攻撃の対象となるよね』自分:『ロジックというか
なんだろう
ベクトルってのが近い気がするな
しかも内に向かうおの
もの
よく日本人に言われることだが
危機対応力の欠如ってやつだが
世界が崩壊しても群れが残ればいいというか
世界が崩壊すれば群れどころじゃないんだが』友人:『世界自体も大きな群れなんだと思うのだけれどねw』
自分:『でも「砂の器」』
友人:『群れって言うもの自体が、限りあるものを奪い取ることにより力を誇示するのかね
ん〜、すまん、少し頭が回らなくなってきた
寝ちゃいそうだw
と、いうか寝る』自分:『明後日世界が滅びます
明日、今日中に大根を掘らないと村が滅びます
そのなかで
明後日世界が滅ぶのに「大根彫ってる場合じゃないよ!」って声が届くのか』友人:『うぅん、それは難しい問題だな
大根を掘らないと、村=自分は滅びちゃうわけでしょ』自分:『村が一丸になってても?』
友人:『大根を掘らないことにより、世界は助かっても、村=自分は滅びるということについて、動考えるか』
自分:『「いまそこにある危機」
むずかすいい
まあ
おやすみ』